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家族の価値 [family values]
【2007/08/08 15:20】
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思想・文化・宗教
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特にアメリカの大統領選挙などのときに、保守層の有権者に訴えかけるために前面に押し出されてくる価値概念。
キリスト教の価値観に基づいた家庭を築くべきだとの主張で、女性は健全な家庭を築くために家庭にいて夫と子供の世話をすべきであり、家庭内では婚前交渉や同性愛や妊娠中絶に反対する教育をすべきと訴える。家族が単位で、家族を守るための名目で、銃の保持も当然のように推奨する。
これはアメリカでの「家族の価値」戦略の例であるが、「家族の価値」というフレーズを用いて、ある特定の価値観を浸透させようとする試みは、いろいろな国の保守層に見られる。
日本でも、「キリスト教」に替わって「日本の伝統にある」とか「古くから日本人の美徳とされてきた」とかのフレーズが用いられることを別とすれば、保守層が「家族の価値」を前面に押し出すのはアメリカと同じ。
「家族の価値」という言葉は、字義通りに解釈するなら、良い意味を持つフレーズのように聞こえる言葉なので、字義通りの意味以外の意味が込められていないか、非常に注意が必要。例えば、「家族」とは何か、「価値」とはどんなことかなど、よく考えるとあいまいで分からない。そういう曖昧な領域に、知らず知らずのうちに別の意味が込められていくことが多し。根は「愛国心」をめぐっての議論と同じ。
昨年暮れに、アベシンゾーが「勤労感謝の日」を「家族の日」と変えようと言い出したことや、自民党の憲法改正案で、24条に関して「家族は、一番身近な公共」という含みを持たせようとする流れが、「家族の価値」を訴え、その「家族の価値」の意味に字義通り以外の意味を込めようとしていることの現れ。憲法改正では、前文や9条ばかりが問題ではないのをあらためて認識すべきと思われる。
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ドラッグ(クイーン) [drag queen]
【2007/03/08 10:25】
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思想・文化・宗教
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dragはもともと「引きずる」という動詞だが、裾の長いドレスなどを「引きずる」というところから出てきたのだろうか、「服装」一般を指す名詞の意味もある。その意味が特殊化して、「男性が着る女性の服装」に。いかにも、女おんなした服装を身につけた男性をドラッグ(クイーン)と呼ぶ。
麻薬・薬物のドラッグは、Drugであって、女装のdragとは、スペリングも発音もまったく関係ない。
dragを、DRessed As a Girのイニシャルをつなげたものが語源とする見方があるが、これは、後付解釈らしい。
ドラッグ・クイーンの画像を張り付けたいところだが、「おっ、この娘はきれいだ」と思えるのが見つからなかったので、今回は見送り。
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黄金律 [Golden Rule]
【2006/06/15 13:34】
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思想・文化・宗教
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各宗教がさだめる、人生において守るべき行動規範のことを言う。キリスト教の場合は、マタイによる福音書7章12節やルカ伝6章31節が、その代表とされるらしい。
何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。 Do as you would be done by. Do unto others as you would have them unto you.
他の宗教・諺では・・・(http://www.tanaka-library.com/shoraitex.pdfより)
エジプト:「他人のために良かれと自らが望んだことを捜し求め、それをしてあげなさい」 ペルシャ:「あなたが人からしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」 仏陀:「他人の幸せを、自ら望んで捜し求めなさい」 孔子:「あなた自身が望まないことを、他人にしてはならない」 モハメット:「あなたがしてもらいたくないような方法で、あなたの兄弟たちを扱ってはな らない」 ギリシャ:「隣人から敵意を抱かせるようなことをしてはならない」 ローマ:「すべての人が心に刻み込んでおかなければならない法律とは、あなた自身の社会 の人たちを愛することである」 モーゼの律法:「あなたが隣人からしてもらいたくないことを、隣人にしてはならない」 イエス:「すべて人にせられんと思うことは、他人にもその通りにせよ」
キリスト教の方は、「他人にしてやれ」と行動を促すのに対して、孔子の儒教の方は、「他人にするな」と行動を制止しているところが、面白い。「自分がしてもらいたいこと」にせよ「自分がされたくないこと」にせよ、その判断は個人的なもの。よって、人によっては、「してもらいたいこと」が本当は「して欲しくないこと」だったり、逆に、「されたくないこと」が「して欲しいこと」だったりする場合もあるはず。
そういったズレが生じる場合でも、キリスト教の方は、「他人にしてやる」のが美徳とされ、儒教の方は、「してあげない」のが美徳とされる。
なお、モーゼの律法が儒教的に否定文になっているのは、例の「十戒」なので否定文で言うしかなかったからかも。
孔子の言葉をもうちょっと詳しく見ると・・・(http://www.asahi-net.or.jp/~df3m-med/word1999.htmlから引用)
子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其 恕乎。己所不欲、勿施於人。
子貢が(孔子に)たずねた。「たったの一言で、一生涯それを実行していく値打ちのある言葉があるでしょうか。」 孔子「それこそ恕(思いやり)であろうよ。(思いやりとは)自分のしてもらいたくないことは、他人にもしむけてはならないということなのだ。」
ということらしい。「恕」(思いやり・寛容)と「怨」(恨み、妬み)って紛らわしい字だ。
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